やまむらはじめ『天にひびき3』

天にひびき 3 (ヤングキングコミックス)

天にひびき 3 (ヤングキングコミックス)

クラシック音楽を扱ったマンガは多いが、いくつかの強く印象に残る作品を振り返ってみたい。増山法恵竹宮惠子『変奏曲』は、少年愛設定は措いても楽器演奏等の視覚的細部をきちんと描いた画期的な作品として記憶されるだろう。くらもちふさこ『いつもポケットにショパン』は、ヨーロッパを舞台にした夢物語として描かれてきたクラシック音楽描写を日本の日常に引き戻した作品として、作者自身や熱心なファン以外には依然「代表作」であり続けている。手塚治虫の未完に終わった遺作のひとつがベートーヴェン伝『ルードウィヒ・B』だったことは、旧制高校教養主義に育った手塚にとってのクラシック音楽の重要性を象徴している。福山庸治『マドモアゼル・モーツァルト』は、モーツァルトは実は女性だったという仮説のもと、映画『アマデウス』等では面白おかしく描かれてきた「彼」の数々の奇行を、性別を偽らないと才能が正当に評価されない世界での「彼女」の哀しい自己主張として捉え直したもので、よしながふみ『大奥』が内外で高く評価されている今日にこそ再評価されるべき傑作である。
変奏曲 vol.1 (1)

変奏曲 vol.1 (1)

ルードウィヒ・B (手塚治虫文庫全集)

ルードウィヒ・B (手塚治虫文庫全集)

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301))

だが、これらの作品は、21世紀に入ってからのクラシック音楽マンガブームには直接つながらない。この意味で歴史の転換点と言える作品は、さそうあきら『神童』だろう。音楽をいかに紙の上で表現するかは、マンガにおける普遍的な課題のひとつだが、この作品は少なくともクラシック音楽において非常に有効な手法を提示した。一般的なポピュラー音楽のライヴ演奏では、音楽家たちは自作曲を陶酔的に演奏し、聴衆=音楽家たちのファンはよほどのことがない限りは演奏を好意的に受けとめようとする。だが、一般的なクラシック音楽の演奏会でプログラムに並ぶのは、作曲作品としての評価は既に定まった曲目であり、演奏家たちは指揮者やソリストの解釈に従うのが仕事だが、そこには自ずと批評的な距離がある。多くの聴衆も曲目自体は数々の名録音や内外の有名演奏家を迎えた演奏会で聴き慣れており、慇懃に耳を傾けても心から賞賛することはそう多くない。このような厳しい状況がクラシック音楽の演奏会では当たり前だからこそ、演奏家たちや聴衆の反応を克明に描いてゆけば、音楽の成り行きはおのずと浮き彫りになる。さらに擬音や決めポーズでアクセントを付け、楽章等の大きな区切りは文章で説明すれば、音楽の疑似体験としては十分。実際の曲の進行に沿った描写ならば、曲を思い出しながら頁を追える読者の感興はますます高まる。
神童 (1) (双葉文庫―名作シリーズ)

神童 (1) (双葉文庫―名作シリーズ)

『神童』はストーリーとしては多分にお伽話的であり(成功物語がいったん暗転した後に芸術的高みを見出すことが肝なので、これはこれで良いのだが)、青年誌にふさわしいリアリティを持たせ、尺もそれにふさわしい長さにした『ピアノの森』、音大生の生活実態調査という講談社らしいデータ収集路線で空前のヒット作になった『のだめカンタービレ』、乙女ゲームのマンガ化だけに、キャラクターのイメージに合った若手奏者を集めてアンサンブルを結成するという興味深いマルチメディア展開を続けている『金色のコルダ』あたりが、『神童』の手法プラスアルファでブームの中核になった作品群である。さそう自身も作画にCGを導入して演奏シーンにさらに迫力を持たせた『マエストロ』を発表している。だが、さそうの最新作『ミュジコフィリア』(双葉社漫画アクション連載中)では、自らの手法を適用するには最も都合の悪い現代音楽を、それも実験音楽サウンドインスタレーションといった伝統的な「音楽」からは遠い存在を積極的に描き、自らの手法から抜け出そうとしている。
ピアノの森 1 (モーニングKC (1429))

ピアノの森 1 (モーニングKC (1429))

のだめカンタービレ(1) (講談社コミックスキス (368巻))

のだめカンタービレ(1) (講談社コミックスキス (368巻))

金色のコルダ (1) (花とゆめCOMICS (2598))

金色のコルダ (1) (花とゆめCOMICS (2598))

マエストロ (1) (ACTION COMICS)

マエストロ (1) (ACTION COMICS)

随分と回り道になったが、さそうのこの変化の契機になったのが、今回取り上げるやまむらはじめ『天にひびき』なのではないか? さそうは2008年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞時点で、ピアニスト、指揮者と取り上げてきたので次回作では作曲家を描きたいと示唆しており、現代音楽を取り上げる構想自体は、このやまむら作品の連載開始以前から固めていたようだ。だが、『天にひびき』でやまむらが用いた音楽描写の手法は、『神童』のものとは大きく異なっていた。もちろん、やまむらがさそう作品を知らなかったはずはない。オーケストラとリハーサルで衝突し、不貞寝を決め込んだ指揮者の代役として現れた小学生の少女が、父が伝えられなかった作品解釈を完璧に表現して天才の片鱗を見せる、という導入部からして『神童』+『マエストロ』である(ちなみに、この曲はベートーヴェン交響曲第4番であり、『のだめ』のテーマ曲とも言える7番とカップリングされることが多い渋い曲をあえて選ぶあたりに、『のだめ』への意識も窺える)。この現場にたまたま居合わせた主人公の秋央は、この少女ひびきの才能のあまりの眩さに進むべき道を見失うが、音大でひびきと再開し、彼女に導かれて徐々に成長してゆく、という展開も『神童』を踏襲している(これは物語の普遍的類型にすぎないとも言えるが)。
天にひびき 1巻 (ヤングキングコミックス)

天にひびき 1巻 (ヤングキングコミックス)

天にひびき 2巻 (ヤングキングコミックス)

天にひびき 2巻 (ヤングキングコミックス)

だが、『神童』の手法では主役だった演奏家たちや聴衆は、やまむらの場合には文章による説明の仮の主体という以上の役割は果たしていない。擬音も全くと言ってよいほど用いられず、音楽の進行を導き/音楽の進行から導かれる身体運動と、その身体から漂うオーラのみで音楽を表現している。擬音を排したスタイリッシュな音楽描写ならば上條淳士TO-Y』、音楽家の身体から漂うオーラならば『いつもポケットにショパン』に先例は見出せるが、それが雰囲気の描写に留まらず、音楽を生々しく現出させる描写になり得ているのは、音楽の進行に沿った身体運動の描写の正確さに多くを負っている。
TO-Y (1) 小学館文庫

TO-Y (1) 小学館文庫

いつもポケットにショパン 4 (クイーンズコミックス)

いつもポケットにショパン 4 (クイーンズコミックス)

これはやまむらの作家としてのレーゾンデートルに関わる部分なので、再びマンガ史を辿ってみよう。大友克洋の登場以降、マンガに求められる描き込みの密度は飛躍的に上がったが、大友のように人物造形や背景等、あらゆる部分でリアリズムを追求した作家は決して多くはない。メカ等のこだわる部分は徹底的に描き込む一方、マンガ的なデフォルメの良さも残し、しかしデッサンや遠近法のような部分では隙を見せないバランスを保った作家が「画力が高い」とされ、士郎正宗を筆頭に、皆川亮二鶴田謙二幸村誠らがこの路線で地歩を築いてゆく。やまむらのキャリアもこの路線上で築かれており、彼にも「画力」への自負はあるはずだ。それはこの路線の本流にあたるSF物や伝奇物では十分に開花しなかったかもしれないが、彼の趣味でもあるクラシック音楽の描写で見事に実を結んだ。J.S.バッハメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲におけるオーケストラの役割の違いを、ともに一枚絵で鮮やかに描き分けているのを見せられては、クラシック音楽好きとしてはもはや感嘆する他ない。
童夢 (アクションコミックス)

童夢 (アクションコミックス)

アップルシード (1) (Comic borne)

アップルシード (1) (Comic borne)

Arms 1 (少年サンデーコミックスワイド版)

Arms 1 (少年サンデーコミックスワイド版)

おもいでエマノン (リュウコミックススペシャル)

おもいでエマノン (リュウコミックススペシャル)

プラネテス(1) (モーニング KC)

プラネテス(1) (モーニング KC)

この作品の紹介としてはこれで十分だと思うが、実は3巻の内容にはまだ一切触れていない。終盤でひびきが名言を呟き、その余韻の中で巻が閉じられる構成はこの巻でも変わらないが、それ以外は主要サブキャラの人物紹介がメインの巻で、秋央とひびきの内面描写に費やされた前2巻の密度と比べると中休みの感がある。ただしこの巻に至って、音大生の群像劇でありながら、まるで性の匂いがしない(男女が雑魚寝しても何も起こらない!)のがこの作品の特徴だとは言えそうだ。普通の大学生(ただし音大生も含まれる)の群像劇の『夢のアトサキ』はそこまで極端ではなかったので、日本における「芸術」にまつわる「清廉さ」の要請の帰結なのだろうか。その意味で、芸術志向の美大生の群像劇だった『ハチミツとクローバー』が連想されてしまう。さそう作品はもう少し性には大らかで、結ばれるべきカップルは早々に結ばれ、それが音楽にもプラスになるように描かれていたが、それは彼らがサブキャラだからかもしれない。『神童』の主人公はまだ性を意識していない少女、『マエストロ』の主人公は妻への純愛に生きる老人(ただしリハーサルで下ネタが多すぎるとオーケストラの団員たちに辟易されているが)で、あらかじめ性とは切り離されていた。このような下世話な部分も含め、『天にひびき』には今後も注目してゆきたい。
夢のアトサキ (ヤングキングコミックス)

夢のアトサキ (ヤングキングコミックス)

ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス)

ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス)

天にひびき 3 (ヤングキングコミックス)

天にひびき 3 (ヤングキングコミックス)